「万物流転(パンタ・レイ)」をギリシャの哲学者たちは論じた。
万物の動的平衡、常ならざる常態を理性で捉えようとした。
そのうちに、万物流転の中に、あるパターンを発見するようになった。
そのパターンを言葉で説明し理解しようと始めた。これが科学となった。
パターンは流転の瞬間を止めてみること。そのパターンをできる限り維持すること
(静的平衡)。
それは科学技術になった。つまり、万物の動的平衡を止めようとすること、
その止まってみえるパターンから何かを人間の暮らしに役立てようとすることが
科学技術となった。
科学はそのうち、静的平衡が万物の流転の中でも平衡を保つと過信をし始めた。
平衡を保つ筈だと信じ始めた。科学の名の下の「神話(myth)」である。
「安全神話」などである。
静的平衡を科学技術が追求した結果が原子力発電所だった。
しかし、核物質は動的平衡そのものだった。破壊と再生を延々と繰り返す。
この二律背反を原子力の平和利用と嘘ぶいて、国は科学技術政策としていたわけだ。
「安全神話」という過信の下に。
科学(技術)は万物の流転を止めることはできない。
つまり、人間に「できないこと」を教えるのが科学ということ。
もし止めることができるのであれば、人間は永久に死なない。
「動的平衡に逆らって何かをせき止めて、人間の暮らしに役立てようと思うことが
そもそもの間違いなんだと思います。」(福岡 伸一)
原発はまさにそうなのだろう。核物質という究極の動的平衡を無理矢理、
鋼鉄とコンクリの建物に押し込んだもの。
放射性物質の環境への放出が止まらない。
原子炉の「停止/閉じ込め/冷却」のうち、「閉じ込め」と「冷却」に失敗したと言う。
これは重大な意味を持つのだと、原子炉設計に携わった設計者たちは口を揃えて言う。
つまり、核物質(放射能)が設計上の静的平衡を保つことができなくなり、原子炉外の環境の
チェーンに組み込まれたことを意味する。つまり、人間の科学では止めることができない
万物流転の鎖の中に人工的に高度に濃縮された核物質(放射能)を組み込んでしまった。
かくして核物質の動的平衡は生物に連鎖していく。そして常ならざる常態で平衡していく。
人間も然り。
連鎖されたくないと誰もが思う。自分だけは静的平衡の側に居たいと。
それは散々騙された科学という「信仰」に近いドグマに再び陥ることだ。
しかし、万物は流転する。肯定的な無常観が求められている。
それは、悲観でなく楽観であり、可能性である。
老哲学者の梅原毅さんが、今の時代にこそ、哲学に回帰すべきだと言われる。
然り。
「男児志を立てて郷関を出ず、学若し成る無くんば復還らず。骨を埋むること
何ぞ墳墓の地を期せん、人間到る処青山有り。」