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2011年10月4日火曜日

福島原発事故にみる、日本人の「和」という国民性がもたらす災い


福島原発事故にみる、日本人の「和」という国民性がもたらす災い

聖徳太子が、十七条憲法の第一条で「和を以て貴しとなす」と記したとおり、日本人の国民性(精神性)を端的にあらわすものが「和」である。また、「和(倭)」は日本という国自体をあらわす言葉でもある。

「和」という獏とした精神的な均衡を常に保ち、その内では争うことなく互いに察することができ、「和」の中に己を消すことが貴いとされる国民性である。

昭和天皇が終戦の詔勅「朕深ク..」の中で「朕」と表現されているが、これも、「私」という意味ではなくご自身も含めて日本人の総意はというお気持ちで述べられたものである。終戦後の日本において嘗ての敵国の進駐がかくも抵抗なく行われたのも、この総意があってのことだ。

戦後、学校教育で英語が取り入れられても、未だに受験英語の域を出ず、実用英語にいつまでたっても届かないことも、「私」を主張する為にあるような英語がそれとは反対の精神性では心底理解されることがないからかもしれない。実際、英語は得意でも英米人と面と向かってディベートができない人はいくらでもいる。

世界中の美とよばれるものにことごとく言葉を以って対決してきた、かのアンドレ・マルローですら、京都太秦広隆寺の弥勒菩薩の静謐なる沈黙の前に佇むばかりで言葉を失ったことは有名な話である。彼の前にあっては美とはあらゆる形式で意識に挑みかかってくるものでしかなかった。しかし、弥勒菩薩は何一つそれがない、然るに美としか感受できないという稀有な体験をし、言葉の無力を悟った瞬間だったのだろう。この静謐なる沈黙は「和」そのものなのかもしれない。

斯様に「和」は国民性(精神性)であるとともに、日本という国の社会意識の底流でもある。その相似形は文化・風土・政治・心理など至るところに潜んでいる。

日本人がいかなる状況においても礼節をわきまえ譲り合う姿はまさに「和」あっての貴さだろう。震災直後に海外から賞賛された貴さである。

この「和」を美学として政治家や役人は使いたがる。「和」という社会意識の底流をわきまえることが手っ取り早くこの国のポピュリズムであるからだ。「付和雷同」がまさにそれで、「私」としての意見や主張を持たず人さまの言動に同調することがあながち悪いことではないという意識だろう。そこには、素直にしたがっている限り責任はないという意識があり、その意識を利用して従わせるという為政者の為の美学がある。良くも悪くも「お上」あっての政治であり行政であることを容認する社会意識がある。「お上」の側でも従わせているが自分たちにも責任はないのだという、「無謬性」という自己保身のためのスイッチが働く。口にしたことに間違いを認めない/将来間違いを認めそうなことには口を噤むという作法である。国会での省庁側の事務次官の答弁は大方この作法に乗っ取っている。
従う者従わせる者の双方において「私」としての主張・意見・責任の在り方がなくても済む社会は、フワフワと当たらず触らずの平和をもたらしてきた。

さて、地震/津波という災害は基本的には天災である。2011311日の東北関東大震災は、もちろん防災上や危機管理上の瑕疵が招いた人災の側面はあるが、発端は自然界の天変地異である。その限りにおいては、この「和」は働き易い。責任の所在は鯰にでもしておいて、宮沢賢治の「アメニモマケズ」を唱えつつ、あきらめずに頑張ろうとする意識に集約することができるわけだ。

ところが、この震災から程なく、東京電力福島第一原子力発電所で大事故が発生した。これは地震/津波によって急停止した原子炉の冷却作業中に発生したこともあり、誰がどう見ても人災だった。責任の所在の第一は東京電力、その原発を国策として推進してきた政府と行政、そしてその原発を誘致した自治体(福島県)にあることも明白だった。

「無謬性」という自己保身のためのスイッチが彼らに直ちに入ったのは想像に難くない。事故発生の初動の過ちを何とか覆い隠すためには、国民が「私」に戻って(我に返って)考えるような情報を出さないと決めたわけだ。放射性物質の拡散予報図(スピーディ)に始まり、次々と情報の隠匿が始まった。東電の息のかかった大手メディアや学者達を使って国民に深く考えさせないための心理誘導(「直ちに○○でない」)が連日行われた。震災で繰り返し使われた「頑張ろう」という「和」に根ざしたスローガンが、なぜかこの原発事故の放射能に対しても使われた。

かくして、震災と同じように鯰にでも責任を取らせるような図式で政府と役人は原発事故被害の実態隠しに奔走し、やがて「風評被害」という言い方で「実害」を表現し始めた。これは誠に都合がよかった。この言い方の下で生産者と消費者を直接対峙させておけば、責任の所在の第一を被るべき者たちはそっと裏口から逃げることができたからだ。変に考えてヒステリーになった消費者のせいで、生産者が泣きを見ているといったメディア(特にNHK)の報道が頻繁になった。

原発事故によって、福島県はある意味でこの図式の縮図となっていた。事故になった原発を擁護し推進していた福島県知事にも「無謬性」という自己保身のためのスイッチが直ちに入ったのは想像に難くない。事故発生直後から知事はあたかも自らが被害者の総代表であるかの行動を取り始めた。県外に対しては福島県の痛みを分かち合えと主張し、福島県の「風評被害」の農産品および放射性廃棄物を引き受けることを求め福島の再生を誓わせ、県内に対しては県民から原発を擁護・推進してきた自己の結果責任の重さを問われないように、県民に深く考えさせることを止めさせるための心理誘導として、「100mSv/年被爆」でも大丈夫という学者を連れてきて被曝しても安全と吹聴させた。県民が大挙して県外に避難するということは、福島という行政府の経済が崩壊することであり、遡ればそういう原発をもたらした自分の結果責任にもなると考えると、県民がどんなに懇望しようが、避難より除染、移住より帰還を貫くことに決した。そして、除染や帰還に従わせるためには、避難とか移住とか言って集団の「和」を崩すことは気まずいような県民間(世代間)の雰囲気を助長させた。

さて、「和を以て貴しとなす」と震災における被災者の「和」を貴しの国民性を理解し賞賛してきた国際社会も、原発事故後も同じ図式を延々と見せられるにつれて、貴しどころか、「狂気」を嗅ぎ取り始めた。

未だ誰一人として逮捕されない、住民のうち誰一人として公式に被曝者として認められない、「風評被害」に比してさしたる「実害」の報道がない、福島市などホットスポットが点在する場所から住民の集団避難が行われない、除染に住民が駆り出される、首都圏は至って平穏・平時、TVなどのメディアでは何事も無いかのごとく秋の味覚/安い・旨い/詰め放題といった報道、原発構内の土壌や海水のサンプルの一つとして調査目的で外部に提供されない、事故当事者且つ運転員でしかない東電に事故処理を預けたままにする、司直の手が東電および事故現場に入らない、証拠の隠滅・改竄を自由にさせている、等など。

一つとっても国際社会では暴動寸前の大騒ぎとなるべきことが、日本ではサイレントなのだ。騒がないばかりか、騒ぐのが面倒/気恥ずかしいという、サイレントマジョリティが国民の大半であること、そのサイレンスに言葉を失うほどの「狂気」を国際社会は感じ取るのだ。弥勒菩薩に美を感受させた「和」が原発事故においては、醜としてしか理解されない。

原発事故にだけは、「和」という社会意識は捨てるべきであろう。被曝の問題は突き詰めれば一個の放射性物質と一人の人間の極めてプライベートな関係である。そこには「私」しかいない。「私」が主張し行動しないかぎり、放射性物質から逃げることはできない。一蓮托生的な集団心理や、誰かの意見に従っていれば良いといった「和」は全く不要だ。「和」を重んじるばかりに、放射性廃棄物の全国処分など、「痛みを分かち合う」という美辞麗句の裏にある「毒喰らわば諸共皿までも」なる滅びの美学を国をあげて行う愚は何としても避けるべきだ。

R. Enomori

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