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2011年2月18日金曜日

「2位に返り咲こうとかバカなことは考えない方がいい」

世界3位に「転落」の日本、「GDP信仰から脱却を」識者語る
オルタナ 2月17日(木)11時10分配信

内閣府は2月14日、日本の2010年の名目国内総生産(GDP)が5兆4742億ドルとなったと発表した。これにより、同年の名目GDPを5兆8786億ドルと発表した中国を下回ることが確定。翌日の新聞各紙は「GDP世界3位に転落」(東京新聞)「ついに米国に次ぐ世界第2位の座を明け渡した」(読売新聞)などと、慨嘆を込めて伝えた。「縮小社会」が話題に上る今、日本が目指すべき未来は。識者に聞いた。

■「フローからストックへの転換を」

「中国がGDPで世界2位になっても驚くにあたらない。人口では中国の10分の1の日本がこれまで上回ってきたことの方が不思議」。そう語るのは、NPO気候ネットワークの浅岡美恵代表だ。

中国外務省報道官は15日の会見で「中国は依然として途上国」との認識を示し、さらなる経済成長に意欲を見せた。その後をインドやブラジルなどが追う。

浅岡代表は警鐘を鳴らす。「しかし地球の資源は有限であり、今後も経済成長は可能なのか。中国はCO2排出量では既に米国を抜いて1位。エネルギーや資源の効率を高めることは必須だが、早期に排出総量をピークアウトさせ、減少に転じるべき」

日本はどうするべきか。豊かさの指標をGDPに求め、米国を追いかけた経済は疲弊し、人心さえも蝕む。「有限の地球を考えれば、もはやフローの指標であるGDPではなく、ストックを含めた新たな豊かさの指標が必要。とりわけ日本はGDP2位の時代に、それにふさわしい有形無形のストックを残せなかった。今こそ、人や将来世代に引き継げる財や文化に投資し、持続可能な低炭素の社会に転換する好機だ」と浅岡代表は説く。

■ローカル化通じ「軟着陸」を

「人間の欲望は無限だとして、それを満たすことを追求したのが経済成長を価値とするGDP神話の内実だ。それを信じていた人々が、経済の縮小に寂しさを感じるのは当然」。環境文化NGO・ナマケモノ倶楽部世話人の辻信一氏は、新聞報道に現れた慨嘆を読み解く。その上で「どうにかそれを乗り越えてほしい」と語る。

「GDP神話の前提は、ピークオイル(石油の減耗)や自然と人間の荒廃などの形をとって破綻した。GDPの増大では、もはや人も自然も持たない。そこからのダウンシフトが必要で、その受け皿になるのが地域に根ざして生きる『ローカル化』ではないか」

ローカル化のキーワードは食やエネルギー、精神性などであると辻氏はいう。そしてこう言葉を結んだ。「『成長の限界』の先にあるハードランディングを避けるなら、GDP神話の真逆に向かうべき。3位の今こそそのチャンスで、2位に返り咲こうとかバカなことは考えない方がいい」

以上記事転載

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私もこの浅岡氏や辻氏の発言に共感します。

先の私のブログでも述べましたが、

ヒトがあるがままでいられないということはエゴ(我)です。エゴの「無制約な自由」という特質は社会や芸術に変革をもたらしてきました。GDPの指標は経済成長、経済拡大というエゴを測る物差しかもしれません。

道徳観や倫理観もエゴによって都合良く変えられてきました。たとえば、子供が邪魔だからといって殺める親も現れる。遺伝子情報まで 読み取って都合良く組み替えようとする。いずれはそういったことが一般化・常識化するかもしれない世の中です。
ヒトはエゴによって他の生き物から自らを区別してきたといえます。しかし、区別し続けてきたツケが生態系の破壊や人心の荒廃といったことでヒトに戻ってきています。

話が少し脇に逸れますが、
「日本には欧州やその他の殆どの国にはない”Ehrfurcht”(畏敬)という言葉が存在しています。これはドイツ独特の言葉で、英語にも翻訳しようがないものですが、先人が学んだ事、これらを学ぼうとする意志を持っている事を意味します。これが日本にはあるのです。日本ではこれがあるから、古い伝統や年長者を敬う気持ちが我々欧州より強いのです。ドイツでは残念ながら失われてしまっています。」
(「音楽の友」19752月号)

これは、1970年代に名門ウィーン・フィルハーモニーを率いて来日公演を行った、オーストリアの巨匠指揮者カール・ベーム(Kahl Böhm)が日本人の特質について語ったものです。晩年に本国よりも日本で圧倒的に称賛を浴びたベームにとって、日本の聴衆、ひいては日本人に対して「古い伝統や年長者を敬う気持ち」として”Ehrfurcht”(畏敬)を感じ取ったのかもしれません。

ベームの指摘を待つまでもなく、日本人の万物に対する畏敬の念は未だに日本人の心情の奥底に宿っていると思われます。田の神、山の神といった自然信仰は、自然に抗わず、常に万物を敬う心を持つことが、農耕民族であった日本人が先人から学んだことなのでしょう。

万物に対する畏敬は翻っては仏教的な自己洞察です。キリスト教的二元論(有・無)的価値判断とは対極にある、仏教的無分別智「非ず(有り+でも無い-でもないこと)」なのでしょう。

GDPの信奉は、まさにこのキリスト教的二元論(有・無)的価値判断に立っています。日本が協定への加盟を模索している、環太平洋連携協定(TPPTrans-Pacific Partnership)も、この価値判断です。その意味では、この協定は農耕民族であった日本人が先人から学んできた、「畏敬」を捨て去ることをせまる黒船なのでしょう。

自己洞察なき科学技術の発展に自然界は警鐘を鳴らしつつあることは先に述べたとおりです。

日本人が先人から学んできた特質、つまり、仏教的無分別智「非ず(有り+でも無い-でもないこと)」を、今こそ、このあくなきエゴという妄念に対峙するテーゼ(アンチテーゼ)として、国際社会・経済において日本が提案すべきではないでしょうか?

このあくなき妄念に対峙できるのもヒトであることに気づくべき時にきているのでしょう。国際社会で率先して対峙できるだけの特質を備えているのは、日本人であることに気づくべきでしょう。逆はまた真なりです。

以上

By R. Enomori

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