TweetAdderを始めませんか?

ページ

zChocolat (Stylish Elegance chocolates in deluxe mahogany chest box)

2011年2月23日水曜日

環太平洋連携協定(TPP:Trans-Pacific Partnership)と「日本人の矜持」

現政権が提唱している環太平洋連携協定(TPP:Trans-Pacific Partnership)、交渉・締結国に日本を加えた参加予定国のGDPを比較すると、その9割以上を日米2カ国が占めるため、実質は日米FTAだとの見方があります。

TPPでは農産物関連の報道は多いのですが、例外品目がなく100%自由化実現を目標とする点を注視する必要があります。

自由化実現のための障壁として関税ばかりが議論されますが、真の障壁は保険・金融業をはじめとするサービス業、弁護士などのライセンス(士業)での内外差別であり、その差別を支えてきたのは日本語の存在です。

我々の社会・暮らし・経済・価値観、文化などは、日本が地形的に島国であること、実質的に単一民族であること(アイヌや琉球を別にして)、家計金融資産の預貯金への偏向・民間の海外への資本流出が少ないこと(Stockが多い)、そして日本語というこの島国だけに通用する言語を持っていることで、まさに「ガラパゴス的」に進化し守られてきたものです。

島国という地政学的な要素は、インターネットの普及・物流の利便などによって、今や問題ではありません。残りの三点、つまり、「多額の金融資産を保有し同じ日本語を話すほぼ単一の民族の集まり」であることについて、TPPから眺めると、根本の障壁ということになります(以下に述べる通り、私はこの中で特に「日本語」=「日本人の矜持」、に注視しています)。

建国から人種も言語も雑多で、貯蓄よりも消費偏重の米国からみれば、日本の上述の特殊性は理解できないことでしょう。まさにStockに比べてFlowの少ない「ガラパゴス」に見えることでしょう。彼らからすれば日本をなんとしても解放しなくてはならないわけです。振って湧いた印象のTPP論議ですが、その意義と動機付けは日本よりも米国にあるのではないでしょうか?

ガラパゴス諸島に他の生態系の動植物を持ち込んだら、おそらく元々あった動植物の殆どは外来種によって淘汰されてしまうことでしょう。元々、生存能力が低い動植物は淘汰される運命にあり、残るべきは能力の高いものでよいというのであれば、ダーウィンの進化論の通りです。

この協定の本質はまさに、功利主義の追求にあります。YesかNoか、有か無かの二元論です。二元論では全てがYesにはなりません。Noがあっての相対主義です。従って、TPP協定下の通商で日本がプレゼンスを維持できる項目もあれば、そうでない項目(諦めるべき項目)も当然考えられます(後者には農産物があるかもしれません)。先のブログでも述べたような仏教史観的な「非ず」などは、TPPの下では全くのナンセンスです。

TPPではYesでもNoでもない曖昧な要素や主張は排除されることでしょう。以下に述べるように日本語の存在意義はこの観点で大きく損なわれることでしょう。

英語が自然科学を綴るに極めて便利な言語(だから世界で普及したとも言えます)のに対して、日本語は行間に意味を持たせるような非明示的な言語です。客観性・合理性に欠くからこそ、日本語はその上に独自の感受性のある文化を発展させることができたわけです。

TPPで要求されるのは、そういった客観性・合理性に欠く言語ではありません。ということになれば、TPPの加盟によって英語に比較して相対的に日本語のプレゼンスは落ちます(もしプレゼンスを維持するなら、先のブログでも述べたように、客観性・合理性を担保した「産業日本語」を通商で用いるべきでしょう)。英語のパブリシティーがあらゆる単位のコミュニティーで求められます。言語での客観性・合理性の追求は、ことばの上の瑕疵の追求=訴訟社会に発展するかもしれません。一々訴えずも分かり合う美徳・公徳は日本語に表されるような「日本人の矜持」があってのものです。しかし日本語よりも英語が尊重されるようになれば、それらもいずれは損なわれていくことでしょう。「英語を喋る国際人」とは受けがいいですが、世界中に散ったユダヤ人のように、日本人が世界で放浪する根無し草になる可能性もあります。

それでも、世界のどこかで生きていられればいいじゃないか、と施政者が言うのであれば、それは、政を無責任に他国に委ねる失政者の言でしかありません。

歴史的にみて、言語(その民族の矜持)を他国に侵略された民族・国家は滅亡します。経済上の損得を超えて、「日本人の矜持」の問題として、TPPがその矜持を損なうものであるか否かを十分に注視する必要があります。経済上の損得勘定は表層の問題であって、日本人が日本人たり得るか否かという、根源的なレーゾンデートルに関わる問題として扱うべきです。さもなければ、将来の若者は簡単に日本人であることを棄て、国を棄てるでしょう。自分にとって金銭上損か得かといった二元論的な行動規範をTPPは若者に教えるようなものです。TPPの先にある将来は憂国とか亡国を飛び越して「棄国」と私は思っています。

「国破れて山河あり」。国は戦乱によって破壊されてしまったが、山河はもとのままの姿で存在し続けてくれるとの杜甫の詩ですが、拠り所とする「もとのままの姿で存在してくれる」何か(=日本人が日本人たり得るか否かという、根源的なレーゾンデートル)すら脅かされるようでは、「日本人の矜持」はあったものではありません。もし三島由紀夫が生きていたならどう思うことでしょうか?日本語に「日本人の矜持」を求めた彼なら、TPPの自由経済主義で捨てるべき矜持は経済のある分野だけにとどまらず、日本語に表わされるような日本人が日本人たり得るか否かという根源的なレーゾンデートルに及ぶことを心配したことでしょう。

「日本人の矜持」の形成に関わる者(特に教育界・仏教界・ペンクラブ・法曹界・社会学者など)は、TPPを経済問題だから関係ないとばかりにだんまりを決め込まずに、その影響の及ぶところを真剣に議論してもらいたいところです。

by R. Enomori

1 件のコメント:

  1. 小野田寛郎 :『わが国の進むべき道を求めて』

    「運任せで生きていくのではなく、時代がどうあれ生きるためにはどういう心掛けのもとで行動していけばよいのか」
    「戦後の日本人は、アメリカの日本弱体化政策によって自由と権利のみを主張されてきた。その反対にある重さ、責任とか義務を教えてこなかったのです。これでは動物と同じです。」
    「このように人問の踏み行う道を教えてこなかった戦後60年が、現在の世相に反映している。どの業界に限らず、自分の欲望をただ大きくしていった結果が現代であると思います。」

    人間の踏み行う道が矜持であり、その道を忘れて只々欲望のままに振る舞うのであれば、動物と同じということです。

    返信削除