『インコからはじまる話』
セキセイインコを飼って1年になる。動物がとりわけ好きなわけでもなく飼い始めたが、
近頃は観察していて不思議に飽きることがない。ヒトの言葉を良く覚えて上手に話して
くれる。声色も使うので時々ドキッとする。目つきや仕草から感情も読み取れるように
なった。インコもチラチラとこちらの動作を観察していて、こちらが食事を始めれば合
わせて粟玉をついばみ、食事が終われば肩の上に飛んできて小首を傾げては遊んで欲し
そうにする。インコの中でも相当賢いヤツらしい。そういう具合なので次第に情が移っ
てきた。
そんなインコだが、不思議なことがある。鏡が大好きで、鳥かごに吊るした鏡の前から
なかなか離れようとしないのだが、毎度鏡に映る自分の姿に威嚇したり求愛したりして
いるのである。鏡を見ながら毛繕いでもすれば良いのにと思うが、いつまでたってもそ
の状態は変わらない。インコは自分を自分として認識しているのだろうか?
インコに話を集めてしまうと大して展開がなさそうなので、ほかの生き物で考えてみる。
モノの本によると、自分を自分として認識するとは外界の事象から自らのアイデンティ
ティーを区別し、平衡を保ちながら2元的に認識することとある。随分と難しい話であ
る。そのためにはものごとを抽象化して理解する能力が必要だそうだ。即ち、自我に基
づいて「私」や「我々」の文脈で考えることができること、さらに知覚によって経験す
ることを空間や時間などの関係的な概念で表現(表象)することだそうだ。この点で、
ある種のサルには自我があるとされる。鏡に映る自らの姿にインコは威嚇し続けるが、
サルは鏡の中の自分にやがて気付く。
この平衡が何らかの原因で崩れると自我が揺らいで、外界が昨日とは異なって認識され
る。訪れたこともない場所なのに前に来たことがあるかのように感じられたり、夢の中
で友人が全く違う人間として現れるといったことは、潜在意識が崩れたバランスを保と
うとして代替したイメージだそうだ。外界は変化せず意識が変化するのである。ドラッ
グでトリップするとは自我の揺らぎを楽しむ?行為なのだろう。インコにとっては鏡の
中の誰かが話しかけてくるだけの話であるが、ヒトが鏡に映る自分と口論し始めたら、
精神的な疾患を疑うべきかもしれない(Capgras' Syndrome)。ヒトやサル以外にこの疾
患に罹る生き物の存在は確認されていないので、ヒトが他の生き物と異なる点の一つと
して理解して良いのだろう。
次に知覚によって経験することを空間や時間などの関係的な概念で表現(表象)するこ
とについてさらに考えてみる。言語や文字はこのための手段だそうだ。言語的コミュニ
ケーションはヒトだけでなく鯨などの生物でも認められるのではないかとの研究もあ
る(鯨は互いに会話するのか?)。鯨の言語構造はヒトのそれよりも格段に複雑との研
究結果が出るかもしれない(反捕鯨国のプロパガンダに使われるだろう)。SFの世界で
は地球外高等生物がもし存在し地球を訪れるとして、彼らにとって唯一コミュニケーシ
ョンが成立する相手は鯨だそうだ。
冗談はさておき、インコはヒトの言葉を真似るが、無論、言語として認識しているので
はない。私を含めインコの飼い主の方が、そう都合良く勘違いして楽しんでいるだけで
ある。サル同士は実際のところ言語的コミュニケーションがないとされる。しかし、天
才チンパンジーとして有名なアイはヒトの教えた図形記号と記号操作による非言語的
コミュニケーションで「私」を主張する(「私は悲しい」だから「悲しいのは私」と理
解する)。「我思う故に我有(Je pense, donc je suis.)」である。主体客体の主客を倒置し
ても主体(我)を見失うことはない。
鯨はさておき、サルの例をとると、ヒトとの決定的な違いがどこにあるのかまたわから
なくなる。
ずいぶんと昔のSONYのコマーシャルで瞑想するサルというのがあった。ウォークマ
ンで瞑想するサルである。サルに自我があるなら、瞑想をするのか?実はサルにはヒト
より秀でた能力が幾つかあるとされる。その一つに映像記憶能力(Eidetic memory)が
ある。ヒトは言語によって自然界の事象を抽象的に把握する能力が向上したために映像
記憶の能力が衰えたが、言語を持たないサルにはこの能力があることが科学的に確かめ
られている。瞑想はこの映像記憶能力を高める手段として知られている。換言すれば、
映像記憶能力が高いサルは普段から瞑想していることになる。よって、ある意味におい
て理にかなったコマーシャルかもしれない。
偉大な芸術家とされる人々はこの映像記憶能力(Eidetic memory)が優れていたようだ。
モーツァルトの手書きの楽譜に書き間違いや修正の跡がほとんどないのは、すでに頭の
中で推敲された楽譜がイメージされていて、その通りに記譜するだけだったからと言わ
れている。米国を代表するオーケストラNew York Philharmonicが近々北朝鮮のピョン
ヤンで演奏を行う予定という記事が新聞に載っていたが、このオーケストラを1950年
代に率いていたギリシャ人指揮者のDimitri Mitropoulosはこの能力が驚異的に備わって
いたそうだ。僅かな準備期間にもかかわらずある作品の数十段、数百ページにも及ぶフ
ルスコアのすべての音符と練習記号をそのページのシミの位置まで含めて鏡のように
記憶していたそうだ。どんな作品でもスコアがなくても100人を超える楽員に同時且つ
的確に練習記号で指示ができたそうだ。また、ピカソも闘牛場で観た死闘のいかなるシ
ーンも映画のコマを送るようにいつでも正確にカンバスに再現できた。三島由紀夫は小
説のための取材旅行をあまりしなかったそうだ。精緻な描写の多くは本や写真から彼の
脳内にイメージされたものを元に発しているそうである。我々凡人には退化してなくな
った映像記憶能力能力が、芸術家にとっては天才の素質の一部となる。さらに言えば、
天才には言語や論理的思考は不要なのかもしれない。坤吟する必要がないから天才と言
われるのだろう(頭を掻きむしるイメージのベートーヴェンが天才ではなく努力の人と
言われる所以である)。この能力は右脳の働きであることが解明されている。先天的に
右脳が発達しているか、後天的に右脳に何らかの物理的刺激(例えば幼年期に事故で右
側頭部を打ちつけた等)が加えられて活性化する場合があるようだ。常人にとっては瞑
想によってある程度取り戻すことが可能である。瞑想する時間のない向きにはTony
Buzanの提唱するMind Mapは教育やビジネスの世界で今一番ホットな右脳左脳のバラ
ンス思考法である。
映像記憶能力においてヒトはサルに劣る。サルは瞑想するのであれば、禅の修行僧のよ
うにその先に何かを悟るのか?
「悟り」は英語でもsatoriである。enlightenmentとか訳す向きもあるが、これでは旧約
聖書創世記の「光あれ("Fiat lux!")」や専制君主の啓蒙思想と同じセンスで且つ下賜す
るニュアンスがあり、由来や本来の意味からして間違いである。由来はサンスクリット
語のbodhiボーディであり仏教上の究極の知覚である。日本では音写され菩提となった。
したがって、欧米に悟りを理解する背景や精神風土は本来存在しない。
我々が計算で普通に用いているゼロという空位の概念は古代インドの賢哲の悟りに発
しているとされる。実在界では直接経験できない「非ず(有り+でも無い-でもないこと)」
という状態を示すゼロという空位の概念は数理的な認識ではなく宗教観(仏教)から発
していることに極めて特徴があると感じる。たとえば般若心経での色即是空・空即是色
「空しいことは有ることでも無いことでもなく、ただ非ずである」がそれであろう。我々
の美意識にも少なからず影響している。書画の行間余白に意味を見出そうとするその意
識である。
猿知恵、猿真似などとサルについては上辺だけを取り繕う蔑視的な喩えに使われている
が、将来研究が進めば、悟りを開いたサルが見つかるのかもしれない。サルについては
この辺りが私の話しの限界である。
鯨についてはどうか?言語的コミュニケーション(音声言語による会話)を持っている
ことが証明されればその先においてヒトと違いはあるか?
言語や文字の技能が複雑化高度化すれば他者との会話が成立し、その表現の抽象度が高
まって普遍化すれば芸術になるのだろう。その普遍性は超然とすればするほど大衆には
理解され難いものである。孤高はそういった芸術家を表すに相応しい。さらに抽象化・
論理化を以って万物の根本原理を知ろうとすれば哲学(学問一般)や宗教に発展する。
他方、表現そのものを型にはめて類型化・並列化を進めれば、道徳感や倫理観、価値観
といったセンスに、そのセンスを明文化すれば法律や戒律になるのかもしれない。我々
の日常の経済活動は専らこのセンスに基づいている。ちなみに最近耳にすることの多い
「萌え」は擬人化した対象への偏愛の気分を仲間うちで共有する感覚であり、類型化・
並列化の範疇かもしれない。その意味で芸術とは志向性が異なり、どこまでいってもセ
ンスでしかない。
いささか脱線したが、まさに上述の点においてヒトは鯨(もし言語をもっているなら)
と異なる。文化を謳歌し、芸術という精神的所産や社会経済という技術的・物質的所産
を為してきた。要はあるがまま(自然)ではいられないのである。もしあるがままなら
ヒトは生態系においてほかの生物に消費されてしまう脆弱な存在だろう。ある動物学者
の話では、南のとある島で火災が発生し調査に出かけたところ、岩場のいたるところに
卵を抱いたままの姿で焼け死んだ海鳥が見つかったそうだ。海鳥にとって卵を放って逃
げるという論理や思考は元々存在せず、遺伝子に組み込まれた種の保存という行動パタ
ーンの結果、卵を守って死んだとのことである。種として親は子供の為に死ぬ存在とい
うことが何のためらいもなく定義づけられているのである(何の不条理もない)。同じ
種同士で殺しあうといった種の保存に反する行動パターンは彼らの個体には存在しな
い。だがヒトならそうなるとは限らない。
ヒトがあるがままでいられないということはエゴ(我)である。エゴの「無制約な自由」
という特質は社会や芸術に変革をもたらしてきた。道徳観や倫理観もエゴによって都合
良く変えられてしまう。子供が邪魔だからといって殺める親も現れる。遺伝子情報まで
読み取って都合良く組み替えようとする。いずれはそういったことが一般化・常識化す
るかもしれない。海鳥の種としての尊厳に比べてヒトの観念(センス)とはそれほどに
脆いものである。
ヒトはエゴによって他の生き物から自らを区別してきたといえる。このあくなき妄念に
対峙できるのもヒトである。その手段は瞑想による深い自己洞察なのかもしれない。自
己洞察なき科学技術の発展に自然界は警鐘を鳴らしつつある。洞察は仏教思想に発し、
その意味でこの危難の時代にはキリスト教的二元論(有・無)的価値判断ではなく、仏
教的無分別智「非ず(有り+でも無い-でもないこと)」が必要なのかもしれない。
逍遥として行き当たりばったりの話になってしまいました。ご容赦願います。
by R. Enomori
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